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2012.08.06

旅で出合った暮らしのかたち〜イエメン・イタリア・モロッコ・マリ・中国〜 第1章 はじめに

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▲イエメン:ハジャラ
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▲イエメン:サナア
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▲イタリア:アルベロベッロ/トゥルッリ
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▲モロッコ:カスバ街道
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▲マリ:セグー
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▲マリ:バンディアガラ
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▲中国:西安/窰洞(ヤオトン)
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▲中国:福建省/客家土楼

photo & text: Motohiro SUGITA
(この記事は、1997年に取材したものです。)

旅で出合った暮らしのかたち
第1章 はじめに〜旅行練習〜(日本〜シンガポール)
第2章 イエメン(サナア〜ダル・アル・ハジャ〜シバーム〜ハジャラ)
第3章 イタリア(アルベロベッロ〜ロコロトンド〜マテーラ)
第4章 モロッコ(カサブランカ〜アトラス山脈〜マラケシュ〜カスバ街道〜ワルザザード)
第5章 マリ(バンディアガラ〜ジェンネ〜モプティ)
第6章 中国(客家土楼〜窰洞)


そうだ。世界旅行、行こう。

 旅に出るにあたって、デザイン会社を経営し多忙を極めていた私が、何故、1ヶ月以上もの期間、会社を閉めて旅に出ることができたのか。先ずそこから話を始めよう。
 それは1997年2月28日金曜日午後5時、突然の電話から始まった。
 「もしもし、杉田さん。たいへん申し訳ありませんが、現行のプロジェクトは中止となりました。今後のことは、・・・・」
 2年以上も続いた、そして今後2年以上は続くであろうと計画していたプロジェクトが、週末の、夕方の電話一本で解消された。社員のこと、清算のこと、これからの家族のこと、あらゆることが駆け巡って頭は空白になった。
 すぐさま社員に事情を話すと、
 「私たちのことはご心配なく、これで終わるつもりはありませんから。それより杉田さん大丈夫ですか。何か虚ろですよ」
 などと、心配されてしまう始末だ。
 そして、私は2人の社員を連れて妻の入院する産婦人科に見舞いに出掛けた。
 今週月曜日に私の第1子、長男が誕生したばかりだったのだ。そして、明日、土曜日には妻子ともに退院を予定していた。2人の社員の計らいで、退院前に見舞いに行きたいとのことで、私と3人で出掛けたのだった。
 プロジェクト中止の知らせに、妻はさほど驚いた様子もなかった。誰もがいつか起こること、いつまでもいいことばかりは続かないと無意識のうちに覚悟している。今は、そんな時代なのだ。
 私と2人の社員は、帰り道、約束していた中華料理店に入り、飲茶で乾杯した。
 「おめでとうございます」
 「申し訳ありません」
 月曜日に息子が誕生し、金曜日に仕事を失った。
 生涯忘れられない1週間となったばかりでなく、今から始まる旅のおかげで、本年33歳、忘れられない1年となった。
 わが社で最大の仕事を失った私は、思いがけず、時間に余裕ができた。また、世界旅行を行う準備として、日頃から銀貨ばかりを貯めていた貯金箱がいっぱいになっていた。
 迷いはない、真っ先に妻に相談した。
 「いいよ。行ってください。私は、1ヶ月間大阪の実家に息子と里帰りしてますから。こんな時でなければ行けないから、是非行って来てください。行っちゃダメだと言っても、行くでしょ」
 全く、その通りだ。素晴らしい妻。かわいい息子。お父さんは、調査旅行に出掛ける決心をした。
 わが社は住宅関連のデザインを行っている。だからこの旅は、わが社の未来を賭けた仕事なのだ。自分と家族にそう言い聞かせた。

時の権力者が残した遺跡を訪ね歩く旅ではなく、
独自の文化、自然環境から生まれた独特なかたちの、
生きた民家を訪ね歩く旅の面白さを追求したい。

 私は以前から、独特な形をした世界の民家を訪ねることが夢だった。
 事の始まりは、建築家のバイブルの1冊、バーナード・ルドルフスキーの「建築家なしの建築」との出合いである。それは、そのタイトル通り建築家が設計していない、その土地の風土やライフスタイルに適合 した、風変わりとも言える世界中の民家を、白黒写真で紹介した建築写真集だ。多くは秘境と言われる、交通の不便な地域にあるので、知的好奇心とともに冒険心をもそそる、とても魅力的な本だ。
 私はその本を見ては忙しい日常から空想旅行に耽っていた。私は空想の中で民家に暮らす人々と対話し、その暮らしを追体験していた。時にはアラブの衣裳を纏い、またある時は西アフリカでダンスを踊り、人民服を着た中国の老人から熱いお茶をいただき、私は彼らの文化やその土地の自然と暮らしの関係について尋ね、記録することを夢見た。
 私の旅は、そこに暮らす人々にとっては日常なのだ。ところが、権力者の建立した遺跡には、日常がない。だから、私にとって遺跡巡りは、観光ではあっても旅ではない。また私は、遺跡の前で私を待ち構えているビジネスマンではなく、そこに暮らす見知らぬ人々と出会いたいと想い続けていたのであった。

旅は旅行会社で決まるのか。

 家族や親戚の理解があって、直ぐさま旅の手配を始めた。とは言え、今はもう5月だ。旅行のハイシーズまであと3ヶ月。早く準備しなければ、手配も困難、料金も跳ね上がってしまう。
 私は、今回の旅を完全手配旅行と決めた。
 回りたいエリアは、アジア、ヨーロッパ、アフリカと広範囲に渡っている。しかも秘境ばかり。これをバッグ・パッキングしてフリーツアーで旅すれば、おそらく最短でも3ヶ月、旅費も最低100万をかけても、目的地に到達できるかどうかの保証もない。私は1ヶ月、100万円を目標に、確実に旅して回れる手配旅行と決めた。
 手配旅行とは、フライトとホテルは勿論、ガイドとドライバーを付けた旅のスタイルである。私は金持ちではない。だからこそ、金と時間を有効に使える旅のスタイル、手配旅行に決めたのだ。
 初めに相談した会社は、格安航空券販売の最大手。
 電話で希望を伝えると、
 「できます。一度お越しください」
 とのことだった。
 実際に行ってみると、要領を得ない回答で、中学生が使う地図帳を片手にモロッコの砂漠の飛行場を探し始める。あるわけがない。しかも、飛行場を表す3文字の略号を何度コンピュータに入力してもヒットしない。私はとりあえず、見積とスケジュールを依頼して、他社を当たることにした。
 大手旅行雑誌には、私の希望を満たす旅行会社の広告は無かった。そこで、バッグ・パッカー御用達の「地球の歩き方」を見ると数軒、世界旅行の個人旅行を手配する旅行会社が紹介されていた。

 2軒目に電話してみた。
 「以前は、していましたが、現在は、団体旅行が中心で、一度団体旅行に参加してくださって、会員になっていただいた方にのみ、個人の手配旅行を提供させていただいています」
 いざ、個人手配旅行に出掛けようと思っても、受け皿が少ないのだと感じた。
 しかし、3軒目に電話を入れると、
 「やってますよ」
 「他社では断られたのですが」
 「へぇ。珍しい会社ですねぇ」
 と、驚いたような、自信に満ちたような返答。
 「今から行きます。まずは、話を聞いてください」
 と言って、時間を約束した。
 場所は神田神保町、岩波ホールの裏手にある「西遊旅行」だ。ヒマラヤ・トレッキングなどの手配で有名なので、世界旅行を手配するイメージが無く、1番に問い合わせなかったのだが、個人手配旅行では、実績のある旅行会社である。岩波書店アネックスの5階までエレベータで登ると、手前に会議室、次ぎにカウンター、そしてオフィスと続いていた。
 現れた担当の女性、沢田さんはしっかりとした感じだ。
 「こんにちは、以前にもお会いしたことがありますよね」
 「いいえ、今回が初めてです。夢で会いましたか」

 私は、早速カウンターに資料を山積みにした。
 「よく調べてますね」
 「時間がありませんからね」
 私は希望する地域をすべてリクエストした。
 西遊旅行は中国の客家土楼、イエメン、マリについては、得意中の得意といった感じである。反面、中国の窰洞、イタリアのアルベロベッロ、モロッコの砂漠のカスバなどは、経験が少なく、社内で検討しますとのことである。初めての打ち合わせにしては、充分なほど具体的なリクエストができた。
 一通り話し終えると彼女から念を押された。
 「時間がありませんね。ご存じの通り、予約を入れてみないとフライトやホテル、現地観光ガイドのバジェト(費用)とスケジュールが出ません。とにかく、急いでやってみます」
 「おっしゃりたいことは良く解りました。それでは、1ヶ月、100万円でやってみてください。ホテルはホットシャワーの出る、民族系で(外資系のラグジュアリー・ホテルではなく)最低限の設備で結構です。それに食事は、朝食だけは付けてください。また、今回の旅は建築とライフスタイルの関係を調査することが目的ですから、その辺りに詳しいガイドを手配してください」
 「解りました。1度出してみますので、次の段階で確認して直ぐに修正、契約としていただけますか」
 「それで結構です」

大使館巡りは、旅行練習。

 旅行会社の選択と同時に、より細かな旅のスケジュールを決めるために、手持ちの資料を抱えて、各国の大使館あるいは観光局を訪ねた。しかも、1日に5ヶ国を一気に。
 まずは、千駄ヶ谷のモロッコ政府観光局。
 朝1番で訪ねると、日本人のご婦人が対応してくれた。観光局長の青木さんだ。私が資料を見せながら具体的な場所と旅行コース、ホテルなどの情報を求めた。
 「よく調べてますね。最近の若者は、考えもなく訪ねて来るから迷惑してるんですよ。あなたはお仕事で。テーマパークか何かをお造りになるの」
 私は思わず吹き出してしまった。
 「とんでもない。趣味が高じて仕事になることを目標とした、何と言うか、そんな旅です」
 青木局長は如何にも話好きな感じのする人柄だ。
 「モロッコ人は、日本人とは違います。見てください。このオフィスに誰もいないでしょ。彼らは時間通りには仕事をしません。具合が悪い。昨日は仕事をし過ぎたと言って、直ぐに休んでしまいます。モロッコ旅行も同じです」
 彼女は確信した口調で続けた。
 「いいですか、モロッコ旅行をするなら「5つのあ」をお忘れ無く。1つ、慌てない。2つ、焦らない。3つ、当てにしない。4つ、侮らない。5つ、諦めない。これが肝心です」
 と続けながら、小1時間ほど、旅のアドバイスをいただいた。
 この時の教訓「5つのあ」は私の人生の座右の銘として片時も忘れたことはない。危機管理上の心理を実に巧く言い表した言葉だ。人生は旅であり、旅から得た教訓は人生の羅針盤であると、つくづく感心させられている。

 2軒目に訪ねたのは、青山にあるイタリア政府観光局。
 毎度のことだが、世界最大の観光地だけのことはあって、多忙を極めている。1つ質問するのに列をつくり、「解りません」。「ありません」。といったドライな返事。旅の目的地アルベロベッロまでの交通機関の詳細は、結局、解らず終いだった。

 3軒目は、西麻布にあるイエメン大使館。
 六本木通り沿いのビルの中にあるオフィスは、大きなドアを入ると直ぐに、秘書が1人座っている広い空間があり、その奥に大部屋がある様子だった。重々しい空気の中を歩いて秘書のデスクまで進み、要件を申し出た。
 秘書の日本人女性は、初めは非常にクールな対応であったが、詳細を尋ねていくうちに、彼女も知っている限りの情報を提供してくれた。1部しかない地図までくれたり、彼女のお気に入りのホテルのリストをくれたり、「他には何か」と繰り返しながら、最後まで丁寧に対応してくれた。
 ここまで3軒を尋ねて、各国の風習が、そこで働く人に影響する雰囲気がこれ程までに多様であることに感心しながら、旅する前に、旅をシミュレートしているような錯覚さえ感じた。

 4軒目は、芝浦にあるマリ領事館を訪ねた。
 ここは総合商社の兼松が兼務していたので、実際の対応は兼松の社員が行っている。極東には、マリ大使館はなく、形式的には、ロシア大使館が本館を統轄しているそうだ。
 兼松の受付で要件を申し出るとロビーで待つように言われた。
 10分ほど待機していると、オフィスから若い女性が資料を抱えてやって来た。私にとっては今回、マリが最も情報のない不安の多い旅行先だ。若い女性の対応に、なおさら不安を掻き立てられる。彼女は事ある毎に「私は行ったことはないんですが、」「聞いた話では、」と断りを入れた。しかし、事前に電話してから尋ねたので、ガイドブックのコピーなど、マリに関する資料を思いつく限り、用意してくれてあった。
 「最近、テレビの猿岩石の影響で、若い子たちがマリでも冒険旅行を気取って、いろいろなトラブルに巻き込まれているようですから、くれぐれも気を付けてください」
 「いいえ、今回は手配旅行で行くつもりですから」
 とは言ったものの、黄熱病の予防注射の義務、日本大使館の不在、どこまでも不安だった。

 最後は、新橋は大門にある中国政府観光局。
 観光局巡りの最後を飾るにふさわしく、独特の雰囲気のある場所だ。大通りから鄙びた路地を入り、そこからビルのエレベータを登る。
 ここは、中国そのものだ。エレベータを降りると観光局の入り口回りには、客を拒絶するかのようにパンフレットが山積みにされているではないか。
 そして、開け放されたドアを入ると、スタッフが忙しそうに歩き回っている。ようやく一人の中国人女性を掴まえて、声を掛けると、私には目もくれずに奥の中国人男性に向かって叫ぶ。一瞬険しい顔をした男性も、私に向かって笑顔で近づいてきた。
 私が要件を伝えると、瞬時にして大まかな地図の記載されたパンフレットを選び出し、
 「はい、これが客家土楼」
 「はい、ここが窰洞」
 と差し出す。
 あまりの早業に不安を感じながら、一つ一つ確認した。
 どうやら、間違いはないようだ。
 最後に私が、ごあいさつのつもりでお薦めの旅行会社を尋ねると、彼は私のノートに、渋谷にある中国旅行専門の会社と経営者である中国人女性の名前、それに彼の名前を書いてくれた。その時ばかりは、彼も嬉々として対応してくれた。

「黄熱病予防注射!」「赤玉薬局!」

 旅行会社から旅の注意事項として受け取った資料を見ると、西アフリカに入国するためには、黄熱病の予防接種が義務づけられていた。また、マラリア予防と治療を兼ねた薬の服用を紹介していたので、私は早速、予防接種から受けることにした。
 しかし、私には不安があった。私は、赤ん坊の頃、三種混合の予防接種をして病院に担ぎ込まれて以来、予防注射をしたことがなかったのだ。だから、小学生の頃は、同級生が予防接種を受けている間は教室に一人残っていた。体育の授業を休むこともないほど健康体ではあったが、万が一のことを案じて、親がそうさせていたのだ。
 私は、丸の内にある財団法人日本検疫衛生協会東京診療所に電話し、黄熱病とコレラの予防接種を受けたいこと、過去に自分は予防接種を受けたことがない事情を相談した。
 そして、ひとまず日時を予約し、訪ねた。

 「現在まで病気をせず健康で、卵アレルギーさえなければ問題はありません。ご心配なら、1回の注射を30分置きに2回に分けて行いましょうか」
 と聞かれたので、迷わずそうした。
 つまり、初めの注射で体調の変化を見ることにしたのだ。
 何の問題も起こらなかった。
 こうして黄熱病予防注射は無事終了したが、コレラの注射は間に合わないことが判った。何故ならば、黄熱病予防接種もコレラ予防接種も生ワクチンのため、1本の注射後1ヶ月を置き、更に出国前に数週間の余裕が必要であった。
 しかし、今日は6月3日、出発は7月1日を予定しているのだ。
 私はコレラ予防接種につては諦めざるを得なかった。
 帰り掛けに辺りを見回すと、ここに予防接種を受けに来ている人たちは皆、ラフな格好で、場慣れしたカメラマンやジャーナリストといった風情であった。

 心配していたような副反応も無く、あらためて自分の健康を再確認すると、妙なことに、自信が湧いて来ることに気づいた。今日まで予防接種を受けていない事が、心のどこかでコンプレックスとなっていたのだ。日本人でも数少ない黄熱病予防接種体験者であることが、殊更に嬉しかった。私にとって自信とは、こんなにも単純なものだったのだ。

 引き続き私は、マラリア予防薬を手に入れるべく、目黒区、戸越銀座にある赤玉薬局に連絡した。戸越銀座と言えば、日本で初めて中央区銀座以外で、銀座と名付けた商店街である。
 旅行のスケジュールと体調、プロフィール、連絡先などを赤玉薬局にファックスして、薬局から医師に処方箋を依頼し、薬を販売する手順となっていた。
 後日、赤玉薬局から電話が入り、私は薬を受取りに行った。すると、最初に出て来たのは婆さんだった。
 話し出して、直ぐに彼女と衝突した。
 私も短気だが、彼女はそれ以上に短気だった。
 「こんにちは」
 と私が言ったが早いか、
 「どこぉ?」
 と主語も述語もなく唐突に尋ねる。
 「どことは」
 「あんたが旅行に行く場所だよぉ」
 と怒鳴り散らす。
 私も彼女のテンションに引きずり込まれて
 「私が行く場所はぁ、イエメンとイタリアとモロッコとマリと中国ですよぉ」
 「えぇ~?」
 「ファックスで送ってるじゃないですかぁ~」
 と私も声を張り上げる。
 暫くすると店の奥から上品な話ぶりの中年女性が
 「どうされましたか」
 と心配して仲裁に入ってくる。
 いつものパターンなのだろうなと察した。私は既にファックスで薬を依頼し、今日はそれを受取りに来た旨を伝えると、直ぐに取り置きしてある薬を出してくれた。
 私も立ち直りが早いが、婆さんもそれ以上に早かった。
 「最近はねぇ、何だった、猿岩石とか言う連中の真似をしてさぁ、海外で無鉄砲な真似をして怪我する若いのがいるからさぁ。しょうがないねぇ。奴等はうちに薬を買いに来ても日本語も話せないんだからさぁ、話になりゃしないよぉ。あんたはしっかりしてそうだけどさぁ。それにねぇ。西アフリカではさぁ、薬を盗まれた人もいるから、気をつけなよぉ。向こうはインド製の薬がほとんどで、日本製のよく効く薬は珍しいからね。それにねぇ。マラリアは怖いよぉ。こないだ帰国してからさぁ。死んじゃった人もいるよぉ。うちの薬は、予防と同時に治療効果があるから、入国前と帰国後にも暫くは飲むんだよぉ。その分はちゃんと入れてあるからさぁ」
 などと、熱のこもったアドバイスを矢継ぎ早にいただいた。
 あまりにもお喋りが楽しかったので、結局、長居をしてしまった。
 今まで薬局は薬臭いクールな場所と決めつけていたが、戸越銀座の裏通りには、下町を絵に描いたようなホットで人間臭い薬局があった。旅の準備をしていると、日常では味わうことのできない体験をする。旅の準備もまた旅なのだ。
 旅行中「西アフリカでは薬を盗まれた人もいるからさぁ、気をつけなよぉ」と言った婆さんのアドバイスが身に滲みることとなるが、この時はまだ、よく喋る親切で元気な婆さんぐらいにしか思わなかった。力説する婆さんのアドバイスをもう少し真摯に受けとめておけば良かったのだが。

英会話教室とスイミングプールで危機管理。

 旅行会社とスケジュールを調整し、現地の情報を入手しながら、英会話スクールに通い、そこで私は、マンツーマンで1回2時間、週3日、3週間、合計9レッスンを行った。
 イタリアと中国を除くアラブ、アフリカ地域では英語のガイドを手配していたので、より詳しい現地調査のために英会話に慣れておきたかったからだ。因みにイタリアは世界最大のツーリズム大国であるからガイドは不要であり、中国ではガイドと言えば日本語であるから英語は不要だった。更に、今回訪問する地域は日本語版のガイドブックが不足していたため、英文ガイドブックを翻訳する手間を省き、英会話の講師に、より簡単な英語に訳して解説してもらいながら訪問地の情報を入手したかったからだ。
 講師はイギリス人で30才のアランという男性である。彼は私が伝えた英会話の目的と方法について直ぐに理解し、羨望の眼差しで私を見ていた。彼もまた、在日英会話講師の御多分に洩れず放浪者だったからだ。しかも、私が差し出したテキストであるイエメンやマリは、彼にとっては未知の、憧れの土地だったのだ。彼は目を輝かせて、自らの感想を話して聞かせた。
 「僕はアラブ文化に興味を持っている。中でもイエメンは最も関心のある国なんだ。杉田さんが羨ましい。それにマリにも行くなんて信じられない。マリはアメリカのTVドラマ「ルーツ」の原点、モデルとなった国であり、ブルースのルーツでもあるんだ」
 アランは終始こんな調子で、楽しくも直ぐに役立つ英会話教室となった。
 また、英会話に通っても直ぐに人に仕事をさせてしまう商売人の私がおかしくもあった。とりわけ面白かったのは、イタリア、アルベロベッロの民家を改造した5つ星ホテルに、ホテルまでのアクセスについての確認を入れるためにKDDのプリペイドカードを購入し、携帯電話を教室に持ち込んでアランに行き帰りの交通について確認してもらった時のことだ。
 アランは額に汗を浮かべながら「プロント(もしもし)」と言って簡単なイタリア語で会話を始めた。レセプションを勤めるイタリア人の軽快な英会話に対して、アランは額に汗を掻き、しどろもどろなやり取りとなった。アランは本当にイギリス人なのだろうかと疑ってしまうほどだった。確かに私に比べれば見掛けは内向的だった。
 そして、私が最寄りの飛行場からホテルまでの電車代金と始発と終電の時刻を確認してもらうと、レセプションの男性は、
 「電車なんかで来なくていいよ。電話すれば迎えに行くから。料金は100リラ(約10円)でいいよ」
 これがジョークなのかサービスなのか、はたまた詐欺なのか判らなかったので再三、ドルかリラかを確認してもらったが、答えは変わらなかった。
 電話を終えてわれわれは、
 「本当に?」
 「解らない」
 「嘘だろ」
 と言って顔を見合わせた。
 同じ英語を話していてもアランに比べると、レセプションの男性は数倍タフに感じられた。
 因みにアランはイギリス人ではあったが、アランの父はアルメニア出身であり、彼も20代にして世界旅行に出て、日本に4年も定住しながら、英会話教師とイラストレータを続けているのだから、イギリスのことをあまり知らないと言っても過言ではない。
 このように世界中の若者が日本にアルバイトで英会話を教えにやって来ているのだ。

 私は英会話教室に通いながら、スイミング・プールにも通った。
 英会話教室と私が通うスポーツ倶楽部は歩いて3分ほどの距離にあったからだ。スポーツ倶楽部には日頃から通っていたが、今回は英会話教室の帰り道、1日おきに通った。
 私は今回の旅には最新の注意を払っていた。普段、運動不足にも関わらず、突然気温40度を越すアラブ、アフリカの砂漠に出掛けるのであるから、いくら注意しても、し過ぎることはないと思ったからだ。
 わたしは30歳になるまで100mも続けて泳げなかったが、いつか泳げるようになりたいと思い続けた執念で、今では1km以上泳げるようになった。そして、今回は鈍った身体を鍛え直すために泳いだ。
 黄熱病の予防注射とスイミング・プールが私に自信をくれた。おかげで体調は万全だった。

最終オリエンテーション

 チケット、クーポンなど一式が揃ったので受取りに来るように、旅行会社から電話が入った。
 旅の費用は当初の目標100万円を大幅に上回ったが、値引きも含めて150万円となった。そして、発券前に全額を振り込むことが条件だった。
 出発4日前、6月27日、旅行会社に出掛けるとイエメン、イタリア、モロッコ、マリの分のチケットとスケジュールやガイドに関すること、フライトについての注意事項など矢継ぎ早に説明を受けた。
 中国旅行は、7月26日に一時帰国した際にチケットとスケジュール表を受け取り、7月29日に再出発することにしていた。強硬なスケジュールであったため、どこかでトラブルが発生して足止めをくらった場合に、その先の行程すべてをキャンセルせずに済むようにするための配慮でもあった。
 打ち合わせで最も注意した点は、フライトと荷物である。
 今回のように22フライトを乗り継いだ場合、荷物はできるだけ1つにまとめて機内持ち込みにしないと、荷物の安全は確保できないと判断したからだ。
 私は旅行会社の担当者に、カートの付いた機内持ち込み用キャリーバッグを持参したいと相談すると、
 「イタリアを除いて、全行程ガイドとドライバーが付いていますから、リュックサックでなくて、カート付きバッグでいいとは思いますが、カート付きバッグは、機内持ち込みを嫌う航空会社もあると思いますよ。特に、世界中で一番カート付きバッグに対してうるさいのがJALです。発券カウンターで必ず預かり荷物にしてくれと要求されるはずですから、「中身はすべて貴重品です。預けられません」と言ってください。それでも預けろと言われたら、「あなたのお名前を教えてください。万一、紛失、破損などが発生した場合には、あなたに責任をとっていただきます」と言えば、間違いなく機内持ち込みは許されるはずです。それに、同じカート付きバッグでも国内線向けに作られた小さいサイズが無難でしょう」
 とアドバイスをくれた。
 そして、それぞれのフライトのステータスやキャンセル、変更の可能、不可能、それらの手続きについて確認し、また、現地ガイドに要求できるリコンファーム(フライト予約の再確認)とスケジュール的に自分でやらなければいけないリコンファームを確認した。
 そして最後に、出発前にそして出発後に現地旅行会社から何か変更や、より詳しいインフォメーションが入った場合には、大阪の妻の実家と私の滞在予定先のホテルにファックスを送ってもらうことを約束した。
 「これほど一度に沢山の場所を手配旅行で行かれるのは、わが社では杉田さんが初めてです。気をつけて行ってらっしゃい。次は7月28日月曜日に元気にお会いできることを楽しみにしています」

仕事の段取り、そして、妻と息子と里帰り

 出発2日前の6月29日、私と妻と息子の3人で新幹線に乗り、大阪の妻の実家に帰った。
 妻の両親とも健在で、私たちを温かく迎えてくれた。もし子供がいなかったら、私もこれほど気楽に旅行に出掛けられなかったであろうし、周囲の理解も得られなかったような気もする。また、子供がいたからこそ完全手配旅行にして、安全第一を考えたのだ。反対に、仕事先に旅行の日程などを簡単に説明すると、「妻子を置いてよく行くな」と感心されたり、呆れられたりもした。
 会社に掛かる電話はすべて妻の携帯電話に転送して、万一の場合に備えたが、進行中の仕事は偶然、すべてペンディング(保留)となり、私の帰国後にちょうど再開となる予定だった。技術的には海外を旅行中の私に転送することも可能であるが、転送費用は転送者負担なので、例えば、商品のセールスの電話を、いちいち海外で受けるわけにはいかない。
 生後4ヶ月の息子は、私が不在の間どれだけ成長するのであろうか。息子を見ていると、たった1ヶ月あまりの不在であるが、途方もなく長い時間に感じられた。

7月1日(火)
シンガポール。小悪魔の囁く旅の入り口で。

 旅行会社から貰った関西国際空港へのアクセスなどを案内したガイドブックを頼りに、大阪市内にある妻の実家から空港へと向かった。
 大阪難波から運行されている空港直行列車ラピートも関西新空港も初めてだったが、何れも非常に綺麗でこじんまりとしていた。
 バカンスには時期が早いせいか人気がなく、寂しくもあったが、親子3人でゆっくりと出発までの時間を過ごすには、むしろ快適だった。
 今回の旅行では、フライトの乗り継ぎが22回もあるため、また、イタリアを除けば完全手配なので、荷物の移動はすべてガイドとドライバーに任せることができる。だから、荷物は1つにまとめ、機内持ち込みのできるサイズのカート付きのキャリーバッグにしていた。先日、旅行会社から、JALは機内持ち込み荷物の制限が世界一厳しいと言われていたので、念のため、手持ちのバッグよりも一回り小さい国内線向けのバッグを前日に購入してあった。
 これが今回の旅行では、大正解となるのである。
 案の定、JALのカウンターでは機内持ち込みを断られかけたので、中身はすべて貴重品であるから預けられないと、旅行会社から教えられた通りに強硬に主張した。
 するとカウンターの女性は、
 「壊れ物注意のシールを貼っておきますので、ボーディング・ゲートでも貴重品だとハッキリとおっしゃってください」
 と言って通してくれた。
 足元に置く荷物に配慮し、座席は窓側をリクエストしたが、身動きのできない機内では通路側の方が、断然便利だ。
 私は妻と息子にキスしてボディー・チェックのゲートをくぐり、予定通り午前11時25分に離陸した。
 私の隣に座った男性は約6時間、終始酒を飲んでいた。これだけ酒を飲む客と全く飲まない客の料金が同じであることも間違いであるが、酒を呑ませてどうぞ暴れてくださいと言わんばかりで、危険極まりない。私も酒は飲むが、黙って6時間、飲み続ける人の隣に座っていることは、気持ちの良い体験ではなかった。
 定刻通り現地時間で16時40分にシンガポール、チャンギ空港に着陸し、すべてのチェックはスムースに済み、両替へと向かった。
 係員はすべて若い、と言うよりも幼い感じの女性で、親しげに日本の天気のことを尋ねられた。
 「日本は暑い。日本は記録的な雨でしょ。毎日雨が降ってるの・・・・」
 私の前の日本人中年男性があまりにもぶっきらぼうだったせいか、私に対しては、その鬱憤が爆発したようだ。シンガポールの第1印象はフレンドリーだった。
 次のフライトまであと8時間あまり。私は荷物を空港の24時間預かり所に預け、いざシンガポール市内へと向かった。
 私はタクシーで市内をミニ観光することに決めタクシーを拾うと、ドライバーは片目の悪い60代半ばの老人だった。しかし目が悪いことに不安はあったが、英語でのコミュニケーションは極めて良好であった。
 われわれは空港から市内へ向かう途中、税金を払うために検問所へと立ち寄った。何だか騙されているような気分になるが、これは正式な手続きなのだ。ドライバーも思いの外フレンドリーで、楽しいオプショナル・ツアーとなりそうで、期待が高まった。
 ただ、市内に高く聳え立つ日本軍に対する戦勝記念の超高層タワーを解説する時だけは、さすがに彼も恥ずかしそうな、申し訳なさそうな話し方をしたのが印象的だった。恥ずかしいのは日本人である私の方なのに。
 シンガポールは公衆衛生が行き届いているため、市内の路上にはごみ一つ落ちていない。滞在中に目にしたごみは、タバコの空き箱1つだけだった。赤道直下のシンガポールでは、ゴミ一つからでも伝染病が蔓延する危険性があるため、命取りになるからだ。
 赤道直下、真夏の小雨模様のシンガポールでは、クーラの効いた車や建物から一歩外に出ると一瞬で眼鏡が曇ってしまうほど、極度の蒸し暑さだった。
 われわれは、ドイツ人が開業したと言われるコロニアル・スタイルのグッド・ウッド・パーク・ホテルからボートキー、クラークキーへと回った。グッド・ウッド・パーク・ホテルは、改装中ということもあって今一つであった。
 反面ボートキー、クラークキーは、古くからある商店街を改造して整備したショッピング街で美しく、楽しい雰囲気のする場所だった。
 タクシードライバーは駐車違反を心配し、私がボートキーやクラークキーを見学している間、車を動かし続けていたのが印象的だった。しかし、私を乗せたドライバーだけが生真面目なのではなく、常にシンガポール当局が厳しく管理しているのである。
 このようにシンガポールは、赤道直下にありながら、世界に類を見ないほど清潔で、伝染病を予防するための衛生管理と治安維持には、目を見張るものがあった。勿論、これには相当のコストが掛かっていることも事実である。
 ドライバーは事ある毎に、
 「とにかく金がかかってしょうがないよ。この国は」
 と、ぼやいた姿が印象的だった。

 極めつけは、何と言っても1887年開業以来、多くの事業家や文人に愛され続けているラッフルズホテルであった。
 タクシードライバーと2時間後の8時30分にホテル前で待ち合わせをして、ホテルのロビーへ一歩足を踏み入れるや否や、かつて感じたことの無いような緊張感に縛り付けられた。狭い床面積に高い天井が、独特の緊張感を演出しているのである。しかもその空間にホテルマンが4人と向かい合うのは私一人だけである。
 しかし、もっと驚いたことは、この後、ロビーで見掛けたゲストがすべて日本人だったことだ。団体客を含めると総勢100名は下らない。
 私は1階のロビーに腰を降ろし、コーヒーを注文しながら、ボーイから夕食の取れるレストランのこと、国際電話の掛け方などを聞いた。後で知ったことだが、カフェは2階にあったが、ボーイは何でもリクエストに応えてくれるのだ。「ここはコーヒーを飲む場所ではありません。コーヒーはカフェで召し上がってください」などとは言わない。ラッフルズホテルはゲストのどんなリクエストにも応えるバトラーがいることで有名だが、そのサービスはロビーでも、また、ビジターに対しても変わらなかった。
 訪れるゲストはことごとく日本人であったが、一際目立つ2人組の中国系の女性がいた。2人とも20代前半であろう、とりわけ1人は顔立ちのハッキリとした美しい、しかも真っ赤なミニスカートのワンピース姿。敢えてタレントに例えれば、二十歳のジュディ・オング。ホテルマンとも親しげに会話を交わしたり、無邪気にはしゃぐ様子から、初めはどこかのお嬢様なのだろうと思って見ていた。
 しかし、快活で美しい方の女性の視線が私に向けられると、様子が変わった。
 彼女は私の向かいのソファに腰掛け、私を誘うように、いや、むしろ無邪気な子供が「遊んでぇ」と食い入るように私を見つめた。反面、もう1人の女性は女友達の積極的な態度を恥ずかしがるかのように落ちつきなく、知らぬ振りをしていた。
 彼女たちは一体、プロの女性なのか、一般のゲストなのか。
 何れにしても、ここで私が彼女たちに気を許してしまうと、始まったばかりの、いや未だ始まっていない世界旅行は、永久に始まらないかもしれない。出発まであと数時間。ここは、心を鬼にして、いや天使にして、彼女たちのあまりにも甘美な誘惑から抜け出さなくてなるまい。
 私は、先ほどボーイから教わった通りに国際電話を掛けるため、エントランスのある棟から出て、バーのある棟へと移動した。そして、バーでテレフォンカードを買い、奥の建物を見学しようとしていると、誘惑の天使たちが足早に私を追いかけてきた。
 「日本人?」
 と尋ねられたが、彼女たちが日本人でないことは、直ぐに判った。完璧に美しい容姿であったが、かん高い「日本人?」と言う音に、私はすっかり夢から覚めてしまった。
 「そうだよ、日本人だよ。でもさぁ、残念だけど、今日は時間がないからお相手できないよ」
 と日本語で断ると、派手な彼女は今度は咽の奥から低い声で、
 「あぁ」
 と言って、理解できないといった表情を浮かべていたが、私にその気がないと解ったらしく、
 「バイバイ」
 と言って残念そうに引き返して行った。
 まさに世界旅行、最初の悪魔の検問所であった。ボディ・チェックはなかったが。

 夕食は先ほどお茶を飲んだロビーに面したティッフィンズ・ルームで、伝統のカレーバイキングをいただくことにした。
 夕食の時間ともなると、日本人の団体が大挙してテーブルを占領。
 長蛇の列になかなかカレーにありつけない。私のような一人旅の呑気者や、少人数の欧米人グループは、団体パワーからすっかり引いてしまって、ひとまずテーブルで、アペルティーフ(食前酒)を楽しんでいた。
 団体客と通りすがりの私を除くと、皆さんとっても小綺麗な服装である。中でもベストドレッサーは日本人新婚カップル。新郎はタキシード、新婦は白のイブニングドレス。如何にもハネムーンといった、ぎこちなくも幸せそうな雰囲気だった。
 そして暫くすると、蜘蛛の子を散らすように日本人団体客は、さぁ~と姿を消した。
 私はここでシャンパンをグラスに2杯いただいた。カレーとシャンパンとコーヒーといった妙な取り合わせで、本日の夕食代金は11000円(半分はシャンパン代金である)。明日からは500円以内に収めよう。

 8時30分、時間通りにタクシードライバーと合流し、再度空港へ。旅先では、例えタクシーであっても約束通りに迎えに来てもらうと嬉しいものである。
 空港では、預けた荷物を受け取り、ファーストフード店でコーヒーを飲みながら、待ち時間を過ごした。
 着陸から離陸までたった8時間ではあったが、旅の初日にしては相当、中身は濃かった。そして、シンガポールの余韻を楽しみながら、時間通りにチェックインした。


第2章 イエメン(ハジャラ〜サナア)へつづく。

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