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2009.12.15

vol.2 イタリア ボローニャ

カテゴリー:05■暮らしのかたち/旅で出会った家とライフスタイル
photo/text: Motohiro SUGITA

26年前の夏、トスカーナの片田舎に迷い込んだ私を、一宿二飯でもてなしてくれた老夫婦のリビアーノとイソリーナ。
25年ぶりに彼らの暮らすボローニャのマンションで再会した私は、そこで7人の子どもと17人の孫に囲まれて幸せに暮らす彼らのライフスタイルを目の当たりにした。

昨年2月、見知らぬイタリア人からメールが届いた。
英語で書かれた文面に我が目を疑った。
なんと、ルカと名乗るその青年は、リビアーノとイソリーナの孫、と書いてあるではないか。
去る1月にリビアーノ80歳のお祝の席で、偶然にも本に挟まれた私からの手紙を発見したリビアーノが、建築家で日本に興味を抱いているルカに私のことを話したところ、早速ルカは、ネット・サーフィンで私を探し当てたのだった。
もちろん最初は私たちのことを知った第三者の悪ふざけと疑ったが、どうやら彼らはリビアーノの家族に間違いないことがわかった。
一ヶ月ほどの間、何通かメールのやり取りを行った後、私は4月に開催される世界最大のデザイン・イベント「ミラノ・サローネ」での取材と合わせ、二泊三日の予定でリビアーノ一家を訪ねる約束をした。
そして、2カ月後に25年分の思い出と感謝を荷物に詰め、ミラノから彼らの暮らすボローニャへ向かった。

郊外の閑静なマンションに暮らす二人

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リビアーノとイソリーナが暮らすマンション外観

ボローニャ駅に着くと直ぐに、ケータイが鳴った。そして、私と友人の廣瀬君の二人は、ルカの運転する車に乗り込んだ。
20年近くミラノに暮らす廣瀬君は、世界各国で活躍する日本を代表する現代アーティストの一人。おしゃべりなイタリア人も静かに彼の話に聞き入ってしまう程、彼は上手に会話し、たくさんの話を聞き出してくれる。
当初、言葉の通じないリビアーノと私との会話は、孫のルカたちが英語で通訳する予定だった。しかし、80歳を越える高齢の彼らと今後何度会えるか、と考えると少しでも細かく正確な話を聞いておきたくて、私は廣瀬君に通訳をお願いした。

リビアーノとイソリーナは、ボローニャ郊外の緑豊かな新市街にあり、大きな公園に隣接するレンガ張りで低層の、とても感じのよいマンションに暮らしていた。
私は、再会に胸を躍らせながらベルを鳴らし、エレベーターで上がり、玄関に立った。

「Mo ! To ! Hi ! Ro !」
まるでオペラを歌うように両手を広げ、抑揚たっぷりにリビアーノは叫び、私たちはお互いをきつく抱きしめ、喜びに目頭を熱くした。
再会の挨拶が済むと直ぐに、25年前同様私たちは、玄関隣りのリビング兼ダイニングの食卓に就いた。

イタリアが世界に誇る料理上手、イソリーナ劇場の幕開けだ。
いつもの習慣らしくルカが皆にアペルティフとしてカンパリのミニボトルを配った。ワインは、バルコニーの巨大クーラー・ボックスのような貯蔵ケースから1本1本出した。
敬虔なクリスチャンのリビアーノは、食事の前に私たちに一言断ってお祈りした。
すると、イソリーナがダイニングの奥にあるキッチンで料理した前菜を自ら運び、続いてパスタ、メインと順番に運んで来てくれた。そしてデザートとコーヒーで〆るまで、私たちは25年前のお互いの状況や気持ちについて語り合った。


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前菜を取り分けるリビアーノ

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トマトソースのパスタ。その奥はアペルティフ用少量のカンパリソーダ

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メイン料理を取り分けるイソリーナ

リビングやゲストルームには、彼ら大家族の写真や思い出の品々を高級感のあるセンスでデコレーションしてあった。さすがはデザイン大国イタリアの一般家庭だ!


リビアーノの半生の一端に触れて

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ボローニャ最古の教会

翌日気持ちよく目を覚ますと、私たちはビスケットとエスプレッソの簡単な食事を済ませ、午前中はリビアーノの案内でボローニャの歴史的中心街を足早に観光した。
リビアーノが定年退職するまで勤めた銀行の前を通り、ボローニャ最古の教会の司教を務める従兄弟と会い、その教会の地下室を借りて古い文献の修復を行う息子のアトリエを垣間見たとき、神学校に通い、ボローニャの大司教に仕えたリビアーノの家族が、いかに教会と深い関係にあるかがわかった。

再びマンションに戻り、イソリーナ手作りのおいしいフルコースをいただいた。
昼食時には必ず孫の一人が訪ねて来て一緒に食事をするそうだ。絵に描いたような幸せな老後、家族像だ。

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17人の孫の中で最年長のルカ(左)

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地元名物ボロネーゼ・ソース(ミートソース)のパスタ


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卵白をからめて焼いた鶏肉と、付け合わせのラタトゥイユのような煮込み野菜

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イチゴのマチェドニア、アイスクリーム添え

昼食を済ませると、7人の子どもを育てながら都心のマンション、郊外の一戸建て、そして老夫婦二人暮しのマンションと3軒の家を移り住んだリビアーノの半生について聞いた。
また、25年前に私たちが出会ったトスカーナ、サン・マルティーノ村の家は、快適な自然環境の中で大家族が一緒に涼しい夏を過ごすために廃墟となった教会を借り、自費で修復しながら住み続けているセカンド・ハウスであることがわかった。

元々リビアーノとイソリーナは、サン・マルティーノ村近くの農家に生まれたのだった。
イタリアでは、夏をセカンド・ハウスで過ごすのは一般的な習慣で、25年前当時も方々にセカンド・ハウスを探して回ったが、サン・マルティーノ村以上に気に入った場所を見つけることはできなかったそうだ。サン・マルティーノ村の環境の素晴らしさ、街並の可愛らしさは、日本人の私も太鼓判を押したい。

リビアーノは、少年時代に神学校に通ったことが縁で、ボローニャの大司教の運転手を務めることとなった。
やがてリビアーノの将来を案じた大司教は、彼に銀行に転職するよう勧め、彼も大司教に従い、夜間の猛勉強の末に転職を果たし、地元の銀行で定年まで勤めたのだった。

また、イソリーナが18歳のとき、1年間だけ帰郷していた当時21歳のリビアーノと出会い、4年後に二人は結婚。母から裁縫を習っていたイソリーナは、型紙の学校に通わせてもらうことを条件に、ローマのある家庭に住み込み、昼間子守りを勤めた。
これ以降、イソリーナは外で仕事をしたことはないが、料理を始め家事からペンキ塗りまで家のことはすべてこなし、7人の子どもを育て上げた。

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リビアーノとイソリーナ、そして7人の子どもたち。ボローニャにて

他方私は、幼年期をマリア幼稚園で過ごした。愛情深くも、体罰を含めて厳しく躾けるシスターに反抗しながら私は、彼女たちから人格形成にとって逃れられない影響を受けて育った。
やがて大学でデザインを学びながらイタリア文化に興味を抱くようになったそんなある日、目にしたのがタビアーニ兄弟の映画「サン・ロレンツォの夜」。映画の魅力に取り憑かれた私は、ロケ地を目指し、間違ってサン・マルティーノ村に迷い込み、リビアーノに出会ったのだった。

ここまでならば、カトリック文化に強い影響を受けた二人の偶然の出会い、と片付けられるが、翌日ボローニャを見下ろす街のシンボルとも言える丘の上の教会を訪ねたとき、二人の出会いは、偶然を重ね合わせて必然へと導く運命だった、と確信したのだった。

酔いも回り、少し疲れた私たちは、昼寝して、夕食はルカの家で大家族皆でいただく予定であることを聞かされた。

7人の子どものうち4人の家族が隣り合わせて暮らすマンションでの夕食は、いったいどんな様子なのだろうか。
次回は、4世帯が暮らすマンションの様子についてご紹介します。(つづく)

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