vol.1 イタリア トスカーナ サン・マルティーノ村
カテゴリー:05■暮らしのかたち/旅で出会った家とライフスタイル
photo/text: Motohiro SUGITA
26年前の夏(1983年)、トスカーナの片田舎に迷い込んだ私を、一宿二飯でもてなしてくれた老夫婦のリビアーノとイソリーナ。
日本とイタリアの小さな国際交流を通して見えてきた、それぞれの国の文化に根付いた家とライフスタイル。26年前のトスカーナでの出会いは、各国を取材しながら住環境ビジネスをデザインする、私の仕事人生を決定づけた。
そして、私たちは25年ぶりに、奇跡の再会を果たした。
憧れのイタリア、未知のトスカーナを目指して
当時二十歳だった私は、京都で一人暮らしをしながら、大学でプロダクト・デザインや建築について学んでいた。
幼児期にカトリックのマリア幼稚園に通っていた私は、大学でイタリアを起源とする古代ヨーロッパからルネサンスの建築と彼らのライフスタイルに興味を抱いていた。
そんなある日私は、第2次世界大戦下のトスカーナで繰り広げられる人間模様、愛について深く、クールに描いたタビアーニ兄弟の映画「サン・ロレンツォの夜」を見て、その映画の魅力に取り憑かれ、舞台となった村を訪ねる決意をした。
そして、東京青山にあるイタリア政府観光局を訪ね、映画の舞台サン・マルティーノ村の場所を突き止めた。
大学2年の夏休みに、私はサン・マルティーノ村を目指した。
フィレンツェからローマに向う鉄道の途中、山の中の無人駅で下車した。
人家の無い、急峻な坂道を歩いて登ると小さな集落があり、街の中心のバールでサン・マルティーノ村への行き方を教わった。
しばらくすると、バール店主の叫び声に促され、1時間に1本しかないローカル・バスに飛び乗った。
緩やかな丘が延々と続く清清しい丘陵地帯を走ると、羊飼いが操る羊の群れに何度か道をふさがれた。まるで映画の1シーン。当時はキャンティ・ワイン、今ではスーパー・トスカーナで有名なこの辺りは、人気のない田園地帯だった。ところで、サン・ロレンツォの祝祭日8月10日前後が、その年のワインの善し悪しを決定付ける重要な期間であることから、聖人ロレンツォは、ギリシャ神話の酒神バッカスに対して、カトリック世界のワインの守護聖人になったそうだ。
未だ見ぬ、そして間近に迫ったサン・マルティーノ村への期待が、徐々に高まっていった。
サン・マルティーノは廃墟の村?
太陽が傾く夕刻、私は目的地最寄のバス停で下車した。
人家は疎らだった。
イタリア政府観光局のイタリア人スタッフに赤ボールペンで記してもらった、地図上の大雑把な印を頼りにバス通りから小さな民家が肩を寄せ合う集落へと足を踏み入れた。
(●写真)バス停からサン・マルティーノ村へ向かうアプローチ。
(●写真)サン・マルティーノ村の街並。石造りの家では、ground floor(1階)は湿気が多いため、1st floor(2階)を玄関とし、2階以上を住居とするケースが多いようだ。
(●写真)サン・マルティーノ村、教会前の広場で村人に囲まれる。
しばらくすると、私は見知らぬ異国の訪問者を不信に思った村人たちに取り囲まれ、体格の良い快活そうな女性に英語で話し掛けられた。
私はこの地を訪ねた理由、そしてこの地を教えてくれた日本在住イタリア人について一通り話した。
「何てあなたはクレイジーなの!イタリアにはサン・マルティーノ村はいくつもあるわ!本当にクレイジーだわ!」
彼女は呆れて尋ねた。
「あなたは日本で何をしているの?」
「僕は大学でデザインを勉強しています」
「まぁ。天才じゃない!」
当時イタリアでは、大学に通い、イタリアでデザインに相当する建築を学ぶ者は、限られた人間だったのだ。
「ところで今日はどこで寝るつもりなの?」
「この広場の一角を貸してください。私は毎日駅で寝袋で寝ています。全く平気です。明日朝出て行きます。ご迷惑はお掛けしません」
すると、後ろで一部始終を見つめていた老紳士が彼女に話し掛けた。
偶然?運命?謎の村で謎の出会い
「あなたは本当にラッキーね!あちらの紳士が今晩泊めてくれるそうよ」
こうして私はリビアーノ一家と出会い、広場近くの彼らの家に招待された。
そして、一息つく間もなく彼の奥さんイソリーナの手作りの肉料理と野菜スープをいただくことになった。
お互い言葉が通じない私たちは、料理や食材の名前を何度も繰り返しながらコミュニケーションした。
「カルネ、ミネストラ……」
このとき覚えたイタリア語は未だに記憶に刷り込まれている。
言葉は通じないが、お互い古くからの親友、あるいは親戚のように、心から食事を楽しんだ。見ず知らずの初対面の人間同士が、お互いを疑う事無く自然に付き合えたのは、互いに己に対する自信と、他人への愛を持ち合わせていたからだろう。
しかし、私たちをトスカーナの山奥で引き合わせた、その運命の糸を紐解くには、25年の歳月を待たねばならなかった。
食事の最後に、私は彼らから本場イタリアのチーズを勧められた。
初めていただく羊のチーズ、ペコリーノは味も匂いも強烈で、当時の私は、ただ顔を赤くして「No Grazie!」と断ることしか出来なかった。
そんな私の表情を覗き込み、彼らは皆、腹を抱えて笑い転げた。幸せな食卓だ!
今では私にとってペコリーノは、イタリアン・ディナーには欠かせない味覚の一つだ。
リビアーノ夫婦と同じくこの村に滞在していたもう一組の老夫婦、オットリーノとマリアも、共に食事をしながら、終始私を優しい眼差しで見つめ、心から出会いを喜んでくれた。
普段ボローニャに暮らしていた彼らは、17世紀に建てられたこの家を、夏の家として利用していのだった。何とも余裕のあるライフスタイルではないか!
私は、彼らに自分の生い立ちや旅の目的を説明するため、日本から持参した私の幼稚園から大学までの写真を見せた。
(●写真)リビアーノたちの夏の家のダイニングにて。左からイソリーナ、リビアーノ、私、オットリーノ、ロッセーラ、マリア。
食後に映画ロケ地をリサーチ
食事が終わった頃、夕刻に村の広場で出会った女性、ロッセーラが私を迎えに来た。
ロッセーラは、フィレンツで観光業に従事していた。だから、英語に不自由が無かった。
「私たち、さっきまで赤の他人だったよね?」と戸惑う間もなく、私は彼らのクイックなペースに心地よくも完全に呑み込まれていった。
ロッセーラの夫ジョバンニが運転するフォルクスワーゲン・ゴルフに乗り込み、隣村のバールまで5分程走った。
私たちは、バールで映画「サン・ロレンツォの夜」を知る村人を探した。
すると、運良くチェザーレという男性が映画を見て知っていた。
そしてチェザーレは、またもや私たちを彼の家に招待してくれた。
そこで私は、映画の舞台サン・マルティーノ村は、実はピサ近くのサン・ミニアート村である、という事実を聞かされた。
初めは耳を疑った。しかし、真実らしい。
サン・ロレンツォは、火炙りにされる図像がシンボルの聖人。
3世紀キリスト迫害時代、ローマ法王の殉教(処刑)に伴い、貴重品を差し出すように求める領主に対して、聖人ロレンツォは、「私の貴重品は弱く、貧しき信者たちです」、と逆らったことから火炙りにされたそうだ。
チェザーレたちイタリア人は、そんな聖人ロレンツォのことを、恐れと親しみと込めて「ファイアー・オブ・サン・ロレンツォ」と呼んでいるようだ。
映画「サン・ロレンツォの夜」には、支配される村人が支配するムッソリーニ(ムッソリーノを支持するファシスト党)によって教会に集められ、サン・ロレンツォの夜に砲弾を撃ち込まれる、という悲劇的1シーンがある。つまり映画は、聖人ロレンツォのアレゴリーとして展開されていたのだ。
また、イタリアでは、聖人ロレンツォの祝祭日8月10日に最初の流れ星に願うと叶う、と伝えられている。映画では、主人公の少女チェチリアと、母親となった彼女が星に願いを掛ける場面が詩的に描かれているのが、美しく印象的だ。
「『サン・ロレンツォの夜』」は、コミュニストの映画だから、私は嫌いだ!」
この後ローマの食堂で同席した男性は、この映画についてこう評価した。
「僕はコミュニストではない。しかし、あの映画は素晴らしい!……」
私は反論し、説得した。しかし、男性は微動だにせず、無言で拒絶した。
日本では私を含め、この映画に対して、イデオロギーに係らず、「これぞ映画。映画はこうあるべき」と最高の賛辞を贈るファンもいる。
戦争の渦中にいる一人の少女チェチリアのニュートラルな視線を中心に描きながら、老人、妊婦、ファシストの親子、レジスタンス、神父……様々な等身大の個人の喜怒哀楽を、卓越した映像詩にまで昇華させた監督タビアーニ兄弟と、彼らを通して「死ぬな!生きろ!愛せよ!」と訴えかけるイタリア文化への興味は尽きない。
カトリックとコミュニスト
イタリア人にとって、繊細だが無視できない重要なテーマなようだ。
リビアーノとイソリーナは、映画「サン・ロレンツォの夜」についてどのように考えているのだろうか?
因に、彼らの暮らすボローニャは「赤い街」と呼ばれる。ヨーロッパ最古の大学のある革新系の街で、赤い屋根瓦の街並が特徴的だから、とのこと。
しかし、多くのイタリア人にとって政治と宗教、そして個人的な生活心情は、複雑に絡み合い、決して単純な思想に帰結することはないようだ。
映画「サン・ロレンツォの夜」の複雑な面白さは、まさにイタリア文化そのものの味わい深さのように思える。
チェザーレから再び食事とワインを勧められたが、流石に満腹で遠慮した。
「それなら」と彼は私に、ヴィンサントらしきデザートワインやサラミをお土産にくれた。
あちらで、そしてこちらで歓待された結果、その夜は最高に幸せな気分で、相当に酔っていたに違いない。
リビアーノの家に戻ると直ぐに、私は大きな部屋で一人ベッドに潜り込んだ。
冷やりとする石造りの部屋に、清潔だが極めて簡素なベッド。
今私は、まさにチェチリアが星に願いをかけた、あのトスカーナに包まれていた。
「8月10日サン・ロレンツォの夜」前後のこの時期は、ペルセウス流星群がトスカーナの夜空に舞うそうだ。
ガリレオの時代から「トスカーナの空は低い」と言われる程、トスカーナの星空は、地上間近に感じられた。
出会ったばかりの親友とドライブ!
翌朝目覚めると、イソリーナは私を手招きし、石造りの家の窓を開けて見せた。
目の前に現れたのはトスカーナの抜けるような青空……ではなく、なんと秘密の地下教会だった!
見下ろすと、教会の祭壇にはすでに朝から数多くの蝋燭が灯されていた。
小さな村の小さな家から見る教会は、とても荘厳で広大に見えた。
ここは一体何なんだ!?
朝食を済ませるとリビアーノは、私とロッセーラを彼の運転するフィアット・パンダでシエナまで連れて行き、3人で小さな観光ツアーを行った。
彼らは、私に相談すること無く、「今日はシエナ観光の日!」と決めていたのだ。
私は、この時からホスピタリティーに溢れ、マイペースな彼ら、イタリア人が大好きになった。
(●写真)私の本来の目的地、サン・ミニアートへ向かう途中、シエナを目指す。リビアーノのパンダも、ジョバンニのゴルフも、サン・マルティーノ村の狭い路地を行き来する適性サイズのようだ。
シエナの中心、世界で最も美しいと言われる、扇型ですり鉢上のカンポ広場(現在は世界遺産)には、1週間前にパリオと呼ばれる競馬が行われた際に敷かれた土が残っていた。
空間全体が熱狂に包まれた、その時の余韻が感じられた。
その後リビアーノは、私が本来行くべきサン・ミニアートに向かうため、私を駅へと連れて行き、切符を買ってくれた。
私は、ヨーロッパの鉄道を期間中乗り放題できるユーレイル・パスを持っていたが、私を制止して嬉しそうに切符を買い渡してくれるリビアーノの親切をありがたく受け入れた。
ところで、マリアも私がサン・マルティーノ村から旅立つ朝、5,000円程のお小遣いを私の手に握らせた。
しかし、決してお金に困っている訳ではない私は、彼女の親切に深く感謝の気持ちを表し、丁重にお返しした。
本来の目的地、ピサ近くのサン・ミニアートに着くと、そこはトスカーナ特有の強烈な陽射しで、朦朧とした意識の中、山上にも関わらず、どこか海岸近くに居るような錯覚を覚えた。
そんな時計が止まったような真夏のサン・ミニアートで、映画そのままの内戦の傷跡が残る教会の前に立つと、私は人間の営みの悲しみや無常を想う気分にさせられた。
反面、サン・ミニアート最寄り駅から丘の上の街サン・ミニアートを目指してヒッチハイクする私を、一度は断ったものの、引き返してピックア・アップしてくれた、若く美しい女性。サン・ミニアートを散策する私に、親切にも無償でガイドしてくれた若く無口な男性……。彼らは困った他人を放置できない、愛すべき何かを持っているようだ。
はじめての海外旅行で見知らぬイタリアの人びとから親切にされた私は、自分もこうありたい、こうあるべき、と深く心に刻み込んだ。
私にとってサン・マルティーノ村こそが、本来の目的地だったようだ。
(●写真)17世紀に建てられた民家の1st floor(2階)から旅立つ私を見送るマリア。
(●写真)映画ロケ地、サン・ミニアートのオフィシャル・ガイド。教会の塔が青空に聳える典型的なトスカーナの山岳都市。
次回は、どのようにして私たちが25年ぶりに再会を果たしたのか、お話します。(つづく)
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コメント
こんにちは なぎささん
コメントありがとうございます。
「サンロレンツォの夜」からサン・マルティーノ村へ。そして、たくさんのイタリア人と友人になった偶然の体験は、私にとって掛け替えの無いものです。
また、今ではこうしてインターネットを通してお話できるのも面白いですね。
なぎささんのブログを拝見し、共感を感じました。なぎささんのブログにもコメントしますね。
投稿: sugita | 2009.07.19 20:47
こんにちは
イタリア語を勉強しているので映画を借りてきていま「サンロレンツォの夜」をみたところです。
内容の深い良い映画でしたね。あなたは25年前にこの映画を見てサンロレンツォをさがしにイタリアにおいでになったのですね。
すごい!!
インターネットで検索しましたらこのブログが出てきました。
始めまして。わたしも一ヶ月ほど前にイタリアに三週間たいざいしまして、そのときの事をブログに書いています。
投稿: なぎさ | 2009.07.19 18:06